亀川純一の「新釈・行基伝」③

新釈・行基伝の第3回です。

行基の生誕または幼少期説として「越後地方」を立てましたが、今までの学説を唱えた人は越後(新潟県)に関係ない学者ばかりで、土地勘がありません。行基研究者の多くは関西人であるためでしょうが、「日本霊異記」の記述を全くと言っていいほど無視する根拠もないはずです。

私・亀川純一のほかにはただ一人、大西龍峯(以下人物に敬称はつけません)がいて、彼は行事研究の権威と言われていた井上薫の説を引いて次のように述べます。

 ~景戒は、行基の出身の高志氏を越氏と誤ったために越後の人としてしまい、・・・

  高志氏がいたので行基を頚城郡の人とした・・・しかし頚城郡の高志氏のカバネは

  帰化人にない・・・頚城郡には行基に関係を持つ遺跡もない。…行基を頚城郡の越

  氏の人とする説には従えない。~(井上)

これに対して大西は「一見なるほどと思うが、よくよく考えるとさほど説得力のあるものではない。・・・越氏から短絡的に越後としたというなら越前でも越中でもよかったではないのか・・・景戒の当て推量にすぎないのなら何故わざわざ頚城郡を出すのか」

と反論する。

私も大西の論を支持する立場です。とにかく「日本霊異記」には行基の記述がいくつも出ています。他にこんな文献はないのです。

みなさんも考えてみてください。

次回は後代に書かれた各種の文献を詳細に羅列された研究者を紹介します。